実録・天皇記 (角川新書) mobiダウンロード
実録・天皇記 (角川新書)
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によって 大宅 壮一
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内容紹介 昭和の怪物ジャーナリストが皇室タブーに切り込んだ圧巻の評論。名著復刻!神代の世以来、その神聖なる血を絶やさんと守られてきた日本の皇室。めくるめく権力闘争と大奥的な構造が、その制度を支えてきた。日本という国にとって、天皇および天皇制とはいかなるものなのか。戦後、評論界の鬼才とうたわれた大宅壮一が、「血と権力」という人類必然の構図から、傍題な資料をもとにその歴史と構造をルポルタージュする、唯一無二の天皇論! 内容(「BOOK」データベースより) 古来、その神聖なる血を絶やさんと守られてきた日本の皇室。めくるめく権力闘争と大奥的な構造が、その制度を支えてきた。日本という国にとって、天皇および天皇制とはいかなるものなのか。戦後、評論界の鬼才とうたわれた大宅壮一が、「血と権力」という人類必然の構図から、膨大な資料をもとにその歴史と構造をルポルタージュする、唯一無二の天皇論! 商品の説明をすべて表示する
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「皇室」「皇族」「宮家」「公家」といった言葉を、正確に理解して使い分けられる人が、いったいどれだけいるだろうか。テレビ報道などを介して、日々、皇室の人たちと接している私たちは、なんとなく彼らのことや、その血筋の歴史、そしてその意味するところやその価値を、知っているような気になっている。しかし、天皇皇后が近くに来ると聞けば、わざわざ沿道につめかけて小旗を振ったりするような「皇室ファン」は無論のこと、皇室こそ日本のアイデンティティーだとかいったことを声高に主張する「右翼や保守」の人たちでさえ、その多くは「皇室の歴史」に詳しく通じているわけではなく、ただ「神代の時代から連綿とつづく、天孫降臨の神の血をひく、神聖なる一家」であるから、とにかく「ありがたい」という程度の理解しかない。要は「詳しいことは知らないが、とにかく歴史ある特別な血筋だから、ありがたいのだ」という認識であり、これは端的に言って「信仰」であり、しかも「妄信」にすぎない。また、多少は皇室に関する資料や文献に当たっているとしても、皇室の権威を語る「教典」めいたものばかりに接し、それをそのまま信用するというのでは、到底それは知的な人間の態度だとは言えないし、ましてや「理解できなくても信じられる」とか「信じるのに理解は必要ない」などと言うにいたっては、「妄信」的な「宗教」の類いとしか呼びようがないのである。こうした「妄信的」姿勢態度が極めて危険だというのは、言うまでもないことである。ナチスの「血の民族神話」のように膨大な悲劇を生み出した「妄信的信仰」の例をひくまでもなく、身近な例で言えば、裏を取ることもなく「信じたいものを信じる」という妄信的態度をとっていれば、今の時代、容易に投資詐欺や悪徳商法の類いにも引っかかるだろう。ただ、国家や社会のレベルでの「妄信的信仰」というのは、多くの人が同時に罹ってしまうために、なかなかそうと気づかれないし、その虚偽が暴かれた後にあっても、自身の「信仰」が虚偽に過ぎなかったということを認められない信者も少なくはない。例えば、オウム真理教という一教団のレベルにおいてさえ、教祖が逮捕され、その内実が暴かれ、教団が解体された後になっても、まだ、暴かれた数々の事実(例えば、教祖はただの人だった等)を受け入れることができず、教祖の教えを信じ続けている信者がいる。なぜ、こんなことになってしまうのかと言えば、それは、その信者個々が、教祖よりも誰よりも「自分自身を過信」しているからに他ならない。自分自身を過信し、その判断能力に固執しているから、客観的事実や信仰対象への学問的な検証などに眼を向ける必要性も感じないし、向けようともしないのである。なにしろ「この私が正しいと判断したんだから、正しいに決まっている」という「主観的判断」がすべてなのである。ただ、こういう「自己相対化」ができず「自己批評」が出来ない人というのは、たいがいは端的に「頭が良くない」。頭の良い人というのは、根本的なところで自分に自信を持っているから、自分の判断をカッコに入れて、客観的に信仰対象を検証してみることを怖れない。「私だって人間なのだから、間違った判断をすることはある」と当たり前に認めることができ、だから、自身の信ずるものを突き放して検証し、自分自身をも検証することができるのだ。だが、根本的なところで自分に自信を持っていない人は、怖くて自分自身の能力や判断を疑うことができない。もしも、検証してみて間違いが判明したら、自分が「頭の悪い凡人」でしかないという事実がバレてしまって、世間的に大恥をさらすことになる、などと脅えてしまうのである。だから、是が非でも「自分は間違わないし、だから自分が信じるものへの客観的検証など必要はない」と、過剰に強気な態度をとらざるを得なくなるのだ。しかし、言うまでもなくこれは「弱者の強がり」でしかない。自分が本気で信じたい「大切なもの」であればあるほど、それが本物であるか否かを検証する必要がある、というのは「理の当然」である。なのに、それができないというのは、その人が自身に本質的な「自信」を持っておらず、そのために手近なところで「依存対象」を見つけ、それを賛嘆することで、自分もその「権威にあやかろう」という人でしかない、ということなのである。したがって、一般庶民的な「天皇」崇拝というのも、基本的には「このたぐい」だと考えて間違いはない。もちろんそれは、国家レベル、社会レベルの信仰であるから、疑いにくいということはあろう。しかし、本当に天皇や皇室の「素晴らしさ」を賛嘆したいのなら、せめてその「素晴らしさ」の歴史的事実を知ってからにすべきであり、それができないというのは、結局のところ、幻想であれ何であれ、手っ取り早く「依存対象」が欲しいだけだからだ、と非難されても抗弁できまい。そんな安易な「信者」たちに、「歴史的事実を検証してみる」などという「面倒なこと」ができるわけもなく、彼らはその「無難そうな権威」に、ただ盲目的にとびつくだけなのだ。○○○さて、本書だが、近年の類書にはない、斬新な魅力を持つ「歴史研究書」となっている。著者は、ジャーナリズムの人だから、自身の著作を「研究書」とは呼ばないし、その書きっぷりも「研究書」的な堅苦しさや勿体ぶったところはまったく無くて、謙遜に「読み物」として楽しんでもらえば良いという態度を堅持している。しかし、書物の本質や価値というものは「外見的な形式」にはなく、「中身」にこそある。そして、本書はその中身において、極めてすぐれた「研究書」なのだということを、まず強調しておきたいと思う。昭和27年(1952年)に初版刊行した本書は、無論、私たちが今テレビなどで目にする「現在の天皇家(平成や令和のそれ)」を論じてのではないが、かと言って、「昭和天皇」を論じているわけでもないし、現在への影響という側面からよく採り上げられる「幕末から明治維新にかけて再編成された天皇制」を論じるものでもない。また、天皇家を権威づけている「万世一系の神話」を検証するために「神代の時代からの、天皇家の神話物語」を研究するといった類いのものでもない。本書が、主に扱うのは「大和朝廷の公家勢力」が「武家」に実質的権力を奪われ、「お飾り的権威」に成り下がった(「王」が「玉」になった)時代から現代に至るまでの「皇室の意味」である。つまり「なぜ、古い権力が、新しい権力によって、滅ぼされることもなく生かされ続けてきたのか、その意味と現実」を明らかにしようとしたのが、本書なのだと言えよう。もちろん「なぜ、古い権力が、新しい権力によって滅ぼされることもなく、生かされ続けてきたのか、その意味と現実」については、多くの人も漠然となら理解しているところであろう。要は「新興勢力が、実質的統治を行うには、古い権威を利用するのが経済的だから」である。例えば、太平洋戦争敗戦後の日本の統治において、マッカーサーが天皇を戦犯として裁かずに「あえて生かして、その権威を利用した」というのと同じことを、「公家」から権力を奪った後の「武家」は行ってきたのだ。口では「天皇」を尊敬崇拝しているようなことを言いながら、内心では馬鹿にしていたことの方がむしろ多いし、それは今の自民党・安倍政権においても、まったく同じだというのは、政治研究の世界では、常識の類いである。ことほど左様に「天皇の血筋」というのは「政治的利用価値」として大切にされてきたのであり、換言すれば「血筋にしか価値が無い」ということでもある。言うまでもないことだが、天皇家の人たちが、客観的・生物学的に見て、他のホモ・サピエンスに比して、特別に優れているというわけでは、まったくない。知性も肉体も人格も「天皇家の血筋をひいているから優れている」ということは、まったくない。彼らはただ、その「権威」にふさわしい人間であることを強いられている「血筋信仰の依り代的奴隷」なのである。だからこそ、彼らには「人権」すら保証されておらず、当然のことながら「思想信条の自由」などというものも無い。彼らは、国民や時の権力者が求める「無難な信仰対象」を演じることを、常に強いられてきた人たちなのだ。そして本書では、皇室の本質を「〝血〟のリレー」にあると、端的に指摘している。生物学的には何の優位性もないその血は、しかし「神代の時代からつながっているという、歴史的フィクション(幻想)」にこそ意味と価値があり、その「歴史的フィクション」に能うかぎりのリアリティーをあたえるためにこそ、「血筋を守る」というのが、彼らの「最大の仕事」なのである。つまり、天皇家の行う「神事」や「公務」といったことは、目に見える「権威補強的つけたり」であって、その本質ではない。第一の仕事ではないのだ。彼らの行ないや振舞いは、彼らが「血の継承者」であってこそ「ありがたい」のであって、他の人が同じことをやったとて、同じようにありがたがられることは金輪際ない、という事実を見れば、これは明らかなことなのである。まただからこそ、時の実質的権力者というものは、「お飾りである天皇」に「あまり出しゃばって欲しくない」と考えている。自分たちが利用するかぎりにおいて「天皇の権威」は強力であるべきだが、その「権威」が自分たちの思惑からはみ出すのを許さない、というのが「実質的権力者の本音」であるのは、今も昔も変わりはしない。その証拠に、平成天皇の「生前退位の制度化(皇室典範の改正)」の意向は、一代限りのものとして矯められてしまうし、天皇家の血筋を守るための「女性天皇」の問題も、「(男系)天皇の血という信仰的権威」に価値を見いだす実質的権力者たちには、容認できないものなのである。つまり、天皇の血筋を守るための皇族とは、所詮「血の輸送用ケース」でしかないのである。「天皇個人がありがたいのではなく、天皇がその身に引き継いでいる〝血〟がありがたいのだ」というのが、「天皇の血」という「呪術的権威」を利用したい、実質的権力者の本音なのだ。そして、皇室の歴史を見れば、どれだけ多くの人たちが「血の輸送用ケースのスペア」として生産され、不必要となれば、粗略に打ち捨てられていったかという事実が明らかになる。天皇になれた人ですら所詮は「血の輸送用ケース」でしかないのだけれど、その「血の輸送用ケース」にすらなれなかった人たち、非人間的な扱いをうけた人たちが、いかに多かったかということを、本書はリアルに教えてくれる。テレビだけを視ていて、天皇皇后の温顔に感動し、皇室の歴史も知らずに「皇室ファン」になるような人たちというのは、時の実質的権力者の思惑どおりに洗脳されている「非理性的な土民」だと、私はあえて断じよう。そんな彼らの存在こそが、天皇を始めとした人たちを、「血の輸送用ケース」であることに止めている。キツい言い方になるが、「皇室ファン」がいるかぎり、天皇を始めとした皇族の人たちは、下世話に「普通の人間」であることを許されず、高貴な「政治的道具」であることを強いられ続けるのである。そしてこれが、私の言う「Bの悲劇」だ。「皇室ファン」とは、その悲劇をひきおこした犯人(実質的権力者)の「善意の共犯者」なのである。「そうではない」と、あなたは言えるだろうか?'
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